INICIAR SESIÓN楚凌が東門の見張りへ向かったあと、蘭珠は静まり返った小さな家の中を見渡した。こんなに“やることだらけ”の空間に放り込まれたのは、生まれて初めてだった。「……えっと。まずは、お掃除……かしら」宮中では片づけは侍女の仕事だった。 蘭珠が持つ箒の使い方は、見よう見まねでしかない。それでも、やらなければならない。(楚凌様は……わたくしのために働きに出てくださっている。わたくしも……できることを)意気込んだものの、数刻後。部屋の隅には、掃いたはずの塵が小さな山を作り、桶いっぱいに汲んだ水は床にぶちまけてしまい、洗濯は桶に浸けただけで腕が疲れて動けなくなった。「ど、どうしてこんなに難しいの……?」膝に手をつき、肩で息をする。お嬢様育ちである自覚はあった。 だが、これほど無力だとは思わなかった。(日が傾いてきてしまう……楚凌様がお戻りになるまでに、せめて一つでも形にしたいのに……)けれど、お腹に手を当てると、微かな張りを感じて動きが止まった。無理はできない。そんな葛藤を抱えたまま、ふらつきながら台所へ戻ったちょうどその時。「蘭珠様」楚凌の声がした。振り返ると、楚凌は鎧でも軍服でもない、門番の質素な衣に身を包み、手に包みを持って立っていた。「ちょうど昼の見回りの交代で戻りました。本日は……これを買ってきております」包みを差し出され、蘭珠が開けると、湯気を立てた肉饅頭が現れた。「まあ……本当に、温かい……!」思わず頬がゆるむ。楚凌は少し照れたように視線を逸らした。「市場の屋台のものです。蘭珠様には……お気に召さないかもしれませんが」「そんなこと……!」蘭珠は急いで縁側へ座り、楚凌も少し離れて腰を下ろした。 ふたりで熱々の肉饅頭を割る。湯気が白く上り、香ばしい肉の匂いが広がった。「……美味しい……!」かじった瞬間、思わず声がこぼれた。楚凌ははっとしたように蘭珠を見つめ、そして視線をやわらかく落とした。「それは……良かった」その声には、どこか安堵と嬉しさが混じっていた。肉饅頭を食べ終えた頃、楚凌がそっと口を開いた。「……蘭珠様。ひとつ、お話がございます」蘭珠は姿勢を正す。「はい」「これからの家事は……蘭珠様おひとりでは難しいと存じます。お体も……その、お子がおりますので」言いにくそうにしながらも、楚凌
東門の近くにある小さな家は、楚凌が「屋敷」と呼んだのが不思議に思えるほど質素だった。瓦屋根はところどころ欠け、門には錆びた蝶番。庭と呼ぶには狭すぎる土の空き地があり、その奥に古びた井戸がひとつ。誰かが住んでいた形跡はあるが、長く人が入っていないのか埃が薄く積もっている。蘭珠は玄関に立ちつくした。(ここで……生きていくのね)宮中の煌びやかな廊下も、侍女たちが運んでくる温かい湯茶も、彼女にはもうない。楚凌はそんな蘭珠の様子に気づき、気まずそうに視線をそらした。「狭く……古い家で申し訳ございません。将軍官舎を退くよう命じられ、東門番の官舎が空いていたため……ここに、二人で住むこととなりました」蘭珠は静かに辺りを見回す。皇太子妃だった蘭珠は、今や東門の門番の妻。その落差が胸に刺さったが、楚凌の言葉には責める色が微塵もない。ただ、申し訳なさと不器用な優しさだけがあった。「いえ……住むところがあるだけで、ありがたいわ」そう返したが、不安がつのる。楚凌は袖まくりをして言う。「今日は交代制で休みですので……できるだけ家を整えます。蘭珠様は、お身体をお労わりください。妊婦の身で無理は禁物です」「……でも、私も何か……」「休んでください」いつも穏やかな楚凌にしては珍しい、はっきりとした声音だった。蘭珠は口を閉じるしかない。楚凌はまず窓の板を外し、布で埃を拭き始めた。ぎこちない所作だが、丁寧で、真面目な性格がそのまま出ている。誰かに動いてもらうことに慣れすぎた蘭珠は、ただ立っているしかなかった。(どうして……下働きの者がいないの?)この屋敷は楚凌の家なのだから、最低限の使用人がいてもいいはずだ。思い切って尋ねる。「楚凌……こちらに、お手伝いの方はいらっしゃらないの?」楚凌の手が一瞬だけ止まった。「……東門の門番となってからは俸給が大きく減り、使用人を雇う余裕がございませんでした、家財のほとんども処分しました」言葉は淡々としているのに、その肩がわずかに落ちたのを蘭珠は見逃さなかった。胸の奥がきゅうっと痛む。(私のせいで……この人まで)景炎に疑われ、離縁され、宮中を追われた。その余波は、自分を救おうとしてくれた楚凌にまで及んでいる。なのに楚凌は不満も愚痴も言わず、黙々と家を整えている。その背中があまりにもまっすぐで、蘭珠は言葉
蘭珠が宮殿の門をくぐった瞬間、背後で重く扉が閉まった。その音は、まるで「お前はもう宮中の人間ではない」と告げる裁きの鐘のようだった。「蘭珠様……こちらへ」楚凌が一歩前に出て、軽く頭を下げる。彼の声は以前よりも低く沈み、目の奥にどこか痛ましい影があった。(楚凌……殿下の命に逆らえず、わたくしの“新しい夫”にさせられてしまったのよね)婚姻など望んでいなかった。望むはずがない。だが、景炎は蘭珠への怒りを鎮めるどころか、「密会していた男女は罪を負って結ばれろ」と言わんばかりに命じた。雪瓔が告げた“夢の予見”を盲信し、蘭珠と楚凌の清き関係を、根本から穢したのだ。「……行きましょう」楚凌が静かに言う。宮殿前に用意されたはずの輿(こし)は、どこにもなかった。侍女たちに尋ねても、「追放された妃に必要ございません」と冷たく言い放たれた。宮中にいるときは、どこへ行くにも輿だった。外の塵に触れることなど、ほとんどなかった。それなのに――「歩いて……行くのですか」蘭珠の問いに、楚凌は目を伏せてうなずいた。「申し訳ございません。俺も、輿を出す立場では……もう」将軍職を取り上げられ、楚凌はただの“元将軍”となった。護衛らしい護衛もいない。二人きりの追放劇だった。蘭珠は歩き出した。楚凌が半歩後ろからついてくる。石畳を踏みしめるたび、胸の奥で何かが砕けていく。(……こんな形で宮中を出る日が来るなんて)寒風が衣をはためかせ、髪を乱す。華やかな宮殿の景色は、背後で遠ざかってゆく。ふと、楚凌が懐から一通の封書を取り出した。「……蘭珠様。これを……お預かりしております」蘭珠は受け取り、封に押された紋を見て息を呑んだ。蘭家の印。つまり――実家からの手紙。手が震えた。それでも、封を切る。『蘭珠へ本日をもって、我ら蘭家はそなたとの親子の縁を断つ。夫を欺き国恥となる行い、家の名を穢した行い、到底許しがたい。以後、蘭家の者を名乗ることも、敷居をまたぐことも許さぬ。蘭家当主 蘭 祁山』一文字ずつ、刃となって胸を裂く。蘭珠はその場に立ち尽くした。紙が風に揺れ、手を離れそうになる。「……もう……わたくしには……」声が出ない。楚凌が、そっと手を差し出した。「蘭珠様。……こちらへ」その手は、大きく、逞しい。でも決し
景炎の怒号が、後宮の静けさを破ったのは、春の風が落ち着かない夜のことだった。「蘭珠! 余の前へ出よ!」寝所で文を書いていた蘭珠は、手を震わせて立ち上がった。 声が怒りに濁っている。こんな景炎の声を聞くのは初めてだ。胸がずくりと痛む。(殿下……どうされたの……?)扉が激しく開かれた。 景炎が立っていた。金の瞳が燃え上がったように怒りに濁っている。 その後ろに雪瓔が控えていた。薄い白衣が風に揺れ、微笑んだように見えた。「殿下……?」蘭珠が一歩近づこうとした瞬間、景炎は冷たく手を払うような仕草をした。「近寄るな」その声音に、蘭珠は息を呑む。「楚凌と……何をしていた?」心臓が止まる。(楚凌……?)思い浮かぶのはただひとつ。 あの日。景炎の変化に怯えていた蘭珠は、楚凌に不安を吐露してしまった。楚凌はただ、静かに励ましてくれただけなのに。「殿下、その……誤解ですわ。楚凌将軍とは、ただ……」「黙れ!」景炎の怒声が、蘭珠の胸を貫く。「雪瓔が“夢で見た”のだ。お前が楚凌と人目を避けて会い、密やかに情を交わすのを」雪瓔は景炎の背後で俯き、細い肩を震わせている。 悲しげに震える仕草が、景炎の怒りをさらに煽る。「殿下……! 楚凌殿と情を交わすなどありえません。雪瓔様の夢見の力など信じてはなりません!」「雪瓔の夢見は戦場で何度も余を救った! 嘘などつくはずがない!」(嘘をついているのは、雪瓔様です……!)叫びたい。 けれど、景炎はもう蘭珠の言葉を聞いていなかった。「蘭珠、お前を妃とは認めぬ。離縁する!」その瞬間、足元が崩れ落ちたような衝撃が蘭珠を襲った。「り、離縁……? 殿下……私たちは……子を授かったばかりですのに……」震える声。 胸が軋む。呼吸が苦しい。景炎の瞳には、もはや一片の慈しみもなかった。「子など……俺の子とは限らぬ」「……!」言葉が出なかった。 景炎の口から、そんな疑いが出るなど思ってもみなかった。(殿下……どうして……私たちは、あれほど……)あの日の甘い誓いが、胸を刺す。 戦へ向かう朝、景炎の手が、蘭珠の腹を優しく撫でた感触。すべてが幻のように遠ざかる。雪瓔がそっと景炎の袖に触れた。「殿下……あまり強く言っては、蘭珠様が……」「雪瓔、お前は正しい。悪いのは妃だ」雪瓔は蘭珠を見て、涙を浮かべたように微
翌朝の後宮は、薄い霧に包まれていた。東殿の朝露に光が宿り、細い風が簾を揺らす。蘭珠は、寝台から起き上がれずにいた。胸の奥に残っているのは、昨夜の景炎の冷たい目と声。(……わたくしを、疑った……)腹に手を添える。まだ小さな命は確かにそこにいるのに、景炎の視線はその存在さえ拒んだ。「蘭珠様……お水をお持ちいたしました」侍女の梅香が台を運んできたが、蘭珠は首を振った。「梅香。お願いがありますの」「……何でございましょう?」「楚凌将軍を……呼んできてちょうだい。ここではなく、庭の東屋へ」梅香は驚いて目を丸くした。「後宮へ、男性を……?」「私室ではありませんわ。庭です。昨日の……殿下のご様子を、どうしても確かめたいのです」梅香は心配そうに頷き、そっと走り去った。蘭珠はゆっくりと立ち上がった。歩くたび腹が重く感じる。だが、胸の不安がもっと重い。(殿下……どうして。なぜ雪瓔様の言葉など……)庭に出ると、東屋の白木が朝の光の中で淡く輝いていた。まだ冷たい大理石の床に軽く手をつき、蘭珠は深呼吸をする。ほどなくして、楚凌が姿を見せた。将軍服のまま、背筋を伸ばし、東屋へと歩み寄るその姿は、昨夜よりずっと凛としていた。「お呼びとのことで参りました。皇太子妃殿下、お身体の具合はもう……?」昨日の馴れ馴れしさは一切ない。楚凌は正しい距離と礼を守り、蘭珠へ深く頭を下げた。「楚凌将軍、急に呼び出してごめんなさいね」「いえ。殿下の妃のお言葉とあらば」楚凌は蘭珠と目を合わせずに控えめに立つ。その姿に、蘭珠はようやく“今の自分はまだ皇太子妃なのだ”と実感した。「話したいことが、ございますの」蘭珠の声は震えていた。楚凌はその震えに気づいたが、あえて表情を崩さない。「殿下の……最近のご様子、あなたはどう見ているのかしら」楚凌の瞳がわずかに揺れた。「……殿下は、戦から戻られて以来、どこか……以前とは異なっておられます」「やはり……」「ただ……妃殿下。これは私個人の感想にすぎません。殿下は戦で多くのものを背負われ、雪瓔という方の“助言”を重く見ておられるようで……」蘭珠は唇を噛む。景炎が信じる“夢見の力”。雪瓔は自分を一度も見ていないのに、「妃が男と密会していた」と夢に見たと言ったという。(そんな馬鹿な話……でも、景炎は信じて
景炎が凱旋して三日。蘭珠はまだ、夫とまともに言葉を交わせていなかった。今日はようやく「皇太子妃として景炎へ正式に挨拶する日」。胸が痛むほど緊張していたが、それでも蘭珠は信じていた。(殿下は……きっと、変わらず接してくださるわ)だが、扉が開かれた瞬間、胸の奥に冷たい予感が走る。礼服姿の景炎が入ってきた。その背後に寄り添うように歩む白衣の女――雪瓔。その姿を見ただけで、蘭珠は息を呑んだ。彼女はやはり美しい。だが、美しさ以上に「気配」が異様だった。空気が揺れるような、ひどく静かな圧。蘭珠は彼女と会うのは初めて。しかし、遠くから見ただけで、全身が粟立つような感覚が走った。(……この人……人ではないような……)だが景炎は、それに気づかぬ様子だった。「殿下……お帰りなさいませ」精一杯の笑みを浮かべて声をかける。景炎は短くうなずき――そして、雪瓔を振り返る。「疲れていないか、雪瓔」「ええ、殿下のおそばなら……」その声音は澄んでいて、妙に響く。蘭珠の胸が締め付けられた。(殿下は……なぜ。私よりも、あの方を……)蘭珠は勇気を振り絞り、一歩前へ。「殿下。お怪我はありませんか? わたくし……ずっとご心配しておりました……」景炎の瞳が向く。その目に、蘭珠は愛情の欠片を探した。だが――そこにあるのは、ただ冷たく曇った色。「……そうか」(……“そうか”?)胸が冷える。言葉があまりにも遠い。以前の景炎なら、真っ先に蘭珠を抱きしめたはずだ。蘭珠は震える声で続けた。「殿下、まさか……わたくしの手紙、届いておりませんでしたの……?」問いかけたとき、景炎の眉がわずかに動いた。「届いていた。だが……余は忙しかった」「それだけのことでしょうか……?」その瞬間、景炎の声が鋭くなった。「蘭珠。雪瓔が“夢で見た”という」蘭珠の血の気が引いた。「……ゆめ……?」隣で控えていた雪瓔が、蘭珠を一度も見ず、静かに景炎へささやく。「殿下、無理にお話しなさらずとも……蘭珠様を責めたくて申し上げたことでは……」その声は、確かに優しい。優しいのに、妙に空虚で、生気が薄い。景炎は雪瓔の手を取った。「いや、伝えねばならぬ。雪瓔の“夢見の力”は確かだ」蘭珠の胸が大きく波立つ。景炎は続けた。「雪瓔は言った。余が戦へ赴く前夜、宮中の庭